「あなたには、あんまり効果がなかったみたいね……。まあいいわ、あなたも相方を残したままでは逃げられないでしょうしね」 椿は傍らの塚地の肩に手を掛けた。塚地は幸せそうな表情をこちらに向けたままだ。 「つ、塚っちゃんに何したんだよ!」 尋常でない様子の塚地を見て、鈴木は怯えたような声で叫ぶ。 「見ての通りよ。彼は私のフェロモンの虜になったの」 ゆったりとした口調で告げる椿。 「フェロモン……?」 「ほら、これ。これが私の武器。これを使うと、男はみんな私の虜になるのよ」 椿は香水の瓶のようなものを取り出した。恐らくそれが、先程二人の意識を惑わせたのだろう。 しかし今、鈴木は特に変調をきたしているわけではなかった。軽く息を吸ってみても、あのフェロモンらしき匂いはかなり薄い。 もしかしたら――と鈴木は考える。あの女性の武器が香水のようなものなら、息を止めて近づけばなんとかなるのではないか。 接近さえしてしまえば、鈴木の実力なら間違いなく彼女を倒せる。その隙に塚地を連れて、遠くまで離れてしまえばいい。安直な作戦ではあったが、鈴木にはこのくらいしか思い付かなかった。 鈴木は椿をじっと見たまま息を吸い込み、全力で走り出した。 あっという間に距離は縮まる。椿は同じ位置に立ち尽くしている。このままなら―― その時、何かが鈴木に向かって警告を発した。 反射的に横に避けた鈴木をかすめるように何かが飛ぶ。とすっ、と小さな音を立てて地面に突き刺さったそれは、投擲用のナイフだった。 「ずいぶん無茶な作戦ね。でも、こっちには人質がいる事、忘れないでちょうだい」 言いながら椿は、右手でもう一本ナイフを抜き取り、塚地の首筋にあてがった。ドレスの飾りのせいで気付かなかったが、彼女は数本のナイフを所持していたようである。 反則だろ、武器が二つあるなんて……。 鈴木は心の中だけで呟いたが、どうやらそれは椿に伝わっていたらしい。 「私が最初に受け取った武器はこっちのナイフよ。香水は死んだ人のナップザックから頂いたの……殺した方は役に立たないと思って残していったのね、勿体ない」 椿は余裕の表情で手の内を明かした。どうやら、自分の勝ちを確信しているようだった。 「僕らをどうするんですか……殺すつもりですか」 鈴木の言葉に椿は微笑む。 「まさか。そのつもりなら最初からそうしてるわ。あなたたちはただ、私のために戦ってくれればいいの――さっきの彼みたいにね」 さっきの彼とは、袈裟姿のピン芸人・南野やじの事だろうか。自分たちも、鉛筆一本で突っ込んできた彼のように、操り人形になって敵に特攻するのだろうか。 「塚っちゃん……」 縋るように相方の名を呼ぶ。 ここで殺されるのも、自分の意志をなくして笑われながら死ぬのも、どちらも嫌だ。自分には、どちらかなんて選べない。 だからいつものように、助けを求めて塚地を見た――そしてその時、鈴木は気付いた。 塚地の視線が、彼の方を向いている事に。 「つか……」 彼に向かって呼びかけそうになった鈴木を、塚地は視線で制した。 椿はまだ、塚地が正気を取り戻した事に気付いていない。そして、その事は知られない方が都合が良い。 塚地は思いっきり横目で椿を見て、声を出さずに口を動かした。どうにかして逃げ出したいんやけど、なんとかならんか――大体そのような事を伝えたいらしかった。 その時になってやっと鈴木は、椿のナイフ攻撃を警告してくれたのが、他でもない塚地だという事に気が付いた。いくら強力なフェロモンとはいえ、時間が経てば徐々に薄れていく。そのため意識を取り戻した塚地が、今のように目と口で合図を送っていたのだ。 そして、塚地を視界の端で捉えていた鈴木は、無意識にその警告を受け取った。予想外の攻撃にも関わらず、奇跡的に無傷でナイフをかわせたのだ。 あの時塚地の警告がなかったら、きっと鈴木は大怪我をしていたに違いない。またしても塚地に助けられてしまった。 だから今回は、鈴木が塚地を助ける番だ。 ――だが、どうすればいい? 今までずっと、考えるのも決断するのも塚地の仕事だった。お笑いの能力もなければやる気もない鈴木は、彼一人にまかせっきりだった。塚地の方も、これが仕事だと割り切っているようだった。 しかし今、頼りの塚地は彼の隣にいない。鈴木自身が考え、決断し、行動しなければならない。 自分と相方の命が懸かったこの場面で。 鈴木は答えを出した。きっと正解ではないだろうが、そうするしかないと思った。 「……あなたの言いなりにはなれません」 鈴木は自らが考えたシナリオを演じ始めた。塚地は緊張の面持ちでそれを見守る。 「操り人形になって死ぬなんて、塚っちゃんは望まないと思います」 台詞を続ける鈴木。塚地は椿が自分の方に視線を移すのを察して、慌てて陶酔した表情を作る。 鈴木は何故か、コントをしている時の二人を思い出した。役になりきり、完璧に演じている塚地の横で、自分は何度も台詞を噛んだ。その度に舞台では失笑を買い、コント番組の収録では撮り直しをさせられた。 しかし今、こうしてバトルロワイアルのステージに立ってみると、共演者やスタッフたちに怒られるなんて、些細な事に思えた。 何しろここでは、失敗は即死に繋がるのだから。 命懸けのコントは続いている。 「それなら今、ここで死ぬのね?」 ナイフを押し付ける手に力が篭められる。しかし塚地は表情を崩さない。さすが芸人兼俳優だ。 「はい。……でもその前に、一つだけお願いさせてください」 鈴木は真っ直ぐに椿を見る。真剣な眼差しに、椿が少したじろいだのがわかった。 「いいわよ……何かしら?」 「塚っちゃんじゃなくて、僕にナイフを刺してください」 はっきりとした口調で鈴木は言った。 「僕は塚っちゃんに感謝しているんです……僕が芸人になれたのも、塚っちゃんのお蔭だし。だから、塚っちゃんに痛い思いをさせたくないんです」 言いながら、鈴木は少しずつ椿に近寄っていった。攻撃の意志が感じられない、無防備な様子で。そのままあっさりと、攻撃が絶対に外れない距離まで入り込む。 鈴木の言葉は真実だ――少なくとも、ドランクドラゴンの関係について多少は聞き及んでいる椿にはそう思えた。 「わかったわ……。あなたたちのコンビ愛に免じて、言う通りにしてあげる。感謝してちょうだいね」 椿は静かに右腕を振り上げる。怯える様子もなく立っている鈴木の心臓に向かって。 人気芸人に自らの手で終止符を打つ、その喜びに椿が陶然と笑みを浮かべた、その時。 彼女の虜だったはずの塚地が動いた。 塚地は腰に手をやる。そこには彼に与えられた武器、吹き矢が差してある。塚地は針のようなその矢を抜き取ると、振り下ろされる直前の椿の右腕に突き刺した。 「あっ!」 椿は短い悲鳴を上げた。右手からナイフが滑り落ち、無音で地面に横たわる。塚地はそのまま椿の腕を振りほどき、彼女の下から脱出した。 「塚っちゃん!」 鈴木はほっとしたように相方の名前を呼んだ。作戦は成功したのだ。 しかし――その直後、二人は喜びを分かち合うのも忘れて硬直した。 塚地に引き離された椿が、まるで崩れ落ちるようにその場に倒れたのだ。 「え……?」 信じられないという表情で、塚地は椿に歩み寄り、その体を軽く揺さ振った。 椿はされるがままになっている。蒼白になった顔には、生気の欠片もなかった。 椿鬼奴は死んでいた。 「う……嘘や……」 かすれた声で塚地は呟く。 「お、俺、針みたいなの刺しただけやで? 痛みでびっくりさせれば逃げられるんちゃうかって……」 まだその手に握り締めていた吹き矢を見た塚地は、次の瞬間、恐れ戦いたようにそれを投げ捨てた。 「ま、まさか、毒が塗ってあったんか!? 一撃で死ぬような毒が……」 塚地はガタガタと震え始めた。 鈴木は無言で塚地の落とした矢を拾う。そして、決然とした声で言った。 「行こう、塚っちゃん」 「す……鈴木……」 「行こう。こんな所にいたってしょうがないよ」 塚地は頷く事も出来ずに、ただ鈴木の顔を見ている。 「……仕方なかったんだよ。向こうが襲ってきたんだから。戦わなきゃ、俺たちが殺されてたんだから」 「でも……」 「塚っちゃん、殺すつもりはなかったんだろ? だから誰も、塚っちゃんの事責めないよ」 「そうか……?」 「この人だって……きっと、苦しまずに死ねて良かったって思ってるよ」 もちろん、死ぬ事がいい事のはずはないのだけれど。 しかし、椿の安らかな死に顔を見ると、鈴木の言葉が真実のように思えた。 いや、今は、そう思い込むしかなかった。 「行こう」 「……ああ」 三度目の鈴木の呼び掛けに塚地が応じ、二人はどこかに向かって歩き始めた。 フェロモンの残り香が、まるで椿が生きた証のように、しばらく辺りを漂っていた。 ――椿鬼奴死亡 【残り57組】 本編 進む 音 ◆yOLxh0F1.c |
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